2017年9月21日木曜日

お寺とお布施

夏に龍谷大学で高橋卓志さんの講義を受けたとき、自己紹介で子供の頃はお寺に生まれたのが嫌でしたと言ったら、理由を尋ねられました。ころも姿を同級生に見られるのが嫌だったのと、なんとなくお寺という職にプライドが持てなかったと言ったら、私も同じでしたと言われました。

お寺というのは目に見えるものを生産したり、やり取りする職ではないので、何をしているのかは子供にはわかりにくかったと思います。ただ他人からお布施をいただいて生活して行けるのだということは何となくわかっていました。まあどちらかというと恵んでもらっているという感じでした。ですからプライドが持てないというのはわかります。

考えて見ればお彼岸に入った昨日今日でも、お供えとして財施を持って来られる方もあれば、お菓子のお供えを持って来られる方やお花を持って来られる方、墓地の草を取りに来られた方など、これらはすべてお布施です。客観的に見ると自主的にお布施を持って来られるということはすごいことです。今の世の中は、お金を払うということは、一般的に結果に対してその対価として払うことがほとんどです。たまには結果を期待して払うということもありますが、それは結果の先取りのような形です。しかしお寺の場合はそれと違います。具体的に何かを期待してというものはありません。存在そのものに対してお布施という形で生活が成り立つ職というのはほかにあるのでしょうか。住職という言葉の意味に重みを感じます。 

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