2016年10月30日日曜日

自力と他力


連研も7回目を迎えいよいよ浄土真宗の要に入って来ました。今日は「他力」です。一般的には自力とは自分の持っている力というふうに考え、他力とは自分以外の力と思っています。そして他力本願が誤用されるようになっています。

他力というのは仏教用語で、浄土教の代表的なものです。自力という言葉は最初はありませんでした。仏教は基本的に自らが修行して悟りを開くという教えですから、自力という言葉を使う必要がなかったのですが、他力という言葉が出来たため、それまでの仏教を自力という言葉で表したものです。

他力を一言でいえば、如来の本願力ということですが、そう聞いても何のことかわからないと思います。自分に対して不思議な力が働くというというふうに考える人もおられるでしょう。完全に間違っているとは言いませんが、それが超能力のようなものであると思うのは間違いです。

自力で悟りを開き仏になるという道は、大変厳しい難行苦行を乗り越えて到達するもので、100%達成しなければ意味がありません。そしてそこまで到達できるのはほんの一握りの方です。仏に成る目的は、苦しみ悩む多くの衆生を救うためですから、一握りの方では到底及びません。

そこで生まれたのが大乗仏教である浄土教です。大乗というのは大きな乗り物という意味ですから、多くの方を乗せることが出来ます。つまり多くの人を救うことが可能になります。自力で修行できない方を乗せて、修業に最も適した浄土という世界へ運んでもらえそこでたっぷりと仏に成るための修業を積み重ねるわけです。

ここでも修行をするのは自分の力ということになりますので、これも自力となります。他力というのは自分で行なう修行さえも阿弥陀仏が肩代わりしてして下さって、私の方はただお任せすればいいというものです。

なーんだそんな簡単なことかと思われるかも知れませんが、実はこれも大変に難しいことです。例えば海で溺れるということを体験的に知っている人にとっては、全身の力を抜いて仰向けに大の字になれば海の力で浮くことが出来るといわれても、自分は何もせずただ海に任せるということが出来ません。

同じように今まで自分の体験や知識で物事を見るということに慣れてしまった私は、自分の思慮を捨て、自分の価値観を捨ててただ阿弥陀如来の本願に任せよといわれても出来るものではありません。親鸞聖人の作られた正信念仏偈にも、阿弥陀如来の本願を信ずることは難しい中にもこれほど難しいことはないと歌われている所以です。

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