2017年1月31日火曜日

研修会の多さは文化?

明日の研修会の最終資料作りを行なっています。本願寺派のプロジェクトが作った20年後の寺院像を中心に、これからのお寺が直面する課題や生き残るための方策を総代の皆様と一緒に考えていきたいと思っています。それにしても本願寺派の研修は多いと思います。 

山陰エリア、鳥取県エリア、組エリアと分かれますが、総代会の研修は年三回、仏婦の研修が年三回、寺婦の研修が年二回、仏壮の研修が年二回、因幡組としての研修が年三回、連続研修が年十二回、そのほか専門的な研修などが年五回程度はあります。すべてひっくるめると年に三十回は研修していることになります。これはもはや文化と言っていいでしょう。 

各寺院で行なっている法座は、多いお寺では年間二十回を超えます。少ないお寺でも年間六回はありますので、年がら年中法座や研修をやっている感じです。これが本堂が聞法道場と言われている所以です。自分が話すことより聞くことの方が大切であるという浄土真宗の特長です。 

寺院消滅の危機が言われて三十年近く経ちました。過疎地では確実にその危機が迫っています。過疎地から都市部への人口移動という要因もありましたが、これからはそれに加えて人口減少が始まります。人口の三割が減少すればお寺の半数が無くなるでしょう。人口減少より早く進むと思います。特に少子化がその原因です。 

今回の提言で少しでも歯止めがかかればいいのですが、人は自分の足元に火が付かなければ分かりません。年金制度が持たない。介護施設が足りない。健康保険制度が持たない。等早くから分かっていた問題ですが、誰も本気で手を付けようとはしませんでした。寺院消滅も今なら回避する方法も考えられますが、10年後であれば難しいでしょう。明日の研修会の反応が楽しみです。 
 

2017年1月30日月曜日

最後のお別れ

今日は一日雨が降っていました。午前中の雨の止み間を見て棺を本堂まで運んでいただきました。いわゆるこれがご自宅からの出棺にあたります。門徒会館は自宅と同じように使っていただくので、本堂までの60メートルが葬送の隊列となります。本堂でのお勤めを葬場勤行といい、一般的にはこれを葬儀と呼んでいますが、本来は臨終勤行から還骨勤行までを葬儀(葬送儀礼)といいます。 

臨終のお勤めをした直後は、家族だけで葬儀を行なうという気持ちでおられました。話しを聞くとご主人が地域の付き合いをきちんとされる方でしたし、同業組合や町内会には連絡をしないといけないということでした。もし死亡したことを近所の方や親戚に知らせずに、身内だけでやってしまうと、しばらくは自宅に弔問客が毎日のように来られることになります。 

いろいろなことを考えて最終的には、一般的な葬儀をされることになりました。結果的には良かったと思います。私も親しい方であったのに喪中はがきで初めて知ったということがありましたが、亡くなられたんだということが腑に落ちないまま過ぎているような気がします。葬儀に出るということは弔意を表すと同時に、自分の中でお別れをするというけじめのような気がします。 

誰にも知らせず家族だけで済ませるというやり方を取られる理由は、故人がそう望んでいたからということが多いようですが、故人もいろんな人を支え、いろんな人に支えられた人生だったと思います。その死を隠す必要はないと思いますし、隠し通せるものでもないと思います。ただでさえ人のつながりが少なくなっている現代です。最後のお別れはきちんとしたいものです。 
 

2017年1月29日日曜日

悲しみを乗り越えて

残すところ1月もあと3日。昨年のことがずっと昔のことのように思える反面、正月からこっちはあっという間だったような気がします。年が変わるということは、古い皮がめくれるということなのでしょうか。

今日は、連研で「み教えと差別」の課題を話し合いました。学校で職場で地域で今まで十分話し合ってきた課題ですが、お寺での話し合いになるとまた雰囲気が違います。 

どこの班も問題提起後の1時間の話し合いでは物足りなかったようです。その理由は、お寺で話すと本音で語り合うことが出来るからなのだとわかりました。少なくとも学校、職場、地域のように、人の目を気にすることなく話すことが出来るようです。これも悪人正機の力なのかも知れません。 

昨夜11時の臨終勤行に続いて、今日は納棺勤行と通夜勤行がありますので、午後は連研を早退して通夜の準備を行ないました。故人は私と三歳違いの急逝された理髪師でした。いろんなことの相談にお寺へよく来られていました。一見こわもてですが、実は自分を表現するのが不器用なだけで、根は家族思いの温かい方でした。通夜振る舞いの席でお嬢さん方に聞いたのですが、私が感じた通りのひととなりでした。 

親しい人がいなくなるのは悲しくて寂しくてつらいことです。でも生れて来た以上は、いつかは往生しなければなりません。この悲しみが次世代の生きる力につながることを信じています。 

2017年1月28日土曜日

公開講座みんなのお寺

「傘寿まり子」では子どもたちと同居中の孤独死が描かれていましたが、ご門徒さんの中にも孤独死のケースが何件かありました。発見した時に既に亡くなられていた場合は、蘇生を願って救急車を呼ぶことが多いようですが、医師が看取ったわけではないので不審死として扱われることが多いようです。親族の方が警察に根ほり葉ほり聞かれて、疲れましたと言っておられました。中には貯金通帳まで調べられたということも聞きました。

明日は第9期連研の10回目で、差別について研修致します。連研では必須の科目です。お寺の研修会でなぜ差別について学ぶのかということを不思議に思われる方があります。仏教は心の中を徹底的に覗いて行くことがありますが、その時に誰しもが持っている瞋恚という心のあり方に気付きます。これは怒り、腹立ち、嫉みという感情です。自分の思い通りにならない時に起こるものですが、それが続いた形が差別につながります。いじめであったり、仲間外れであったり、無視したりという行動になって現れることがあります。 

差別の怖いところは集団で継続性があるところです。そして差別を受けた側が別の形で差別をするという連鎖が続くことがあります。連研ではどうすれば差別のない生き方が出来るかを学びます。

今回の連研の最終回は3月26日ですが、午後からは誰でも参加できる公開講座となります。他宗派の方の参加も歓迎いたします。講師は仙台で「みんなのお寺」という名前のお寺を夫婦で立ち上げられた天野和公さんをお迎えします。檀家ゼロからのスタートで、現在は本堂まで新築され、驚くような規模のお寺さんになっています。その15年に亘る体験談が聞けます。下のチラシをご覧下さい。そしてご参加下さい。お待ちしています。


 

2017年1月27日金曜日

お寺と住職

一般的なお寺の規模を企業に例えるとほとんどが零細企業になります。零細企業とは製造業でいえば常時雇用労働者が9名未満となっています。特に多いのが常時雇用は住職と坊守だけですから、どちらかと言えばお寺=住職と言うことになり兼ねません。 

実際にも住職が変わったことでお寺が変わったという例はいくらでもあります。住職の思いがそのまま表に出るのがお寺であるとも言えます。お寺で取締役会に当たるものは、責任役員会です。宗教法人法のモデルでは、責任役員会は3名以上で構成することになっており、そのうち1名は住職であり代表責任役員となります。定数を3名とした場合あと2名は門徒代表でもいいのですが多くの場合寺族がなることが多いようです。そのため多数決の採決では、お寺側2名門徒側1名となり、対立した場合はお寺側の意見が通ることになります。これがお寺が寺族化しているという批判の理由でもあります。 

お寺には総代がいるではないかという人があると思いますが、総代は宗教法人法での規定はなく、寺院規則で決められた住職の諮問機関であり、決定権はありません。また総代は住職が任命するので、そこにも住職カラーが出ます。そうはいっても人としての力量の違いは出ますので、しっかりした考えの総代さんがいれば、住職の重しになることは間違いないでしょう。 

零細企業と聞くとデメリットばかり思いつきますが、自分の考えだけでうまく立ち回ることも可能です。つまり身軽に方向転換をすることも出来ます。間違ったと思ったら変えればいいだけです。さらに従業員に払う給料があるわけではないので、支出もコントロール可能です。勤務時間に制限があるわけではないので、年間変形労働時間制が取れます。これからお寺が生き残れるかどうかは、住職にかかっていると考えてもいいでしょう。法の範囲内で自由にコントロール出来るというのは、案外良いことかも知れませんね。
 

2017年1月26日木曜日

お寺はこれからも存在するのか

21日の鳥取因幡組門徒総代研修会で「20年後の寺院像」について話しをすることになっていますので、資料をまとめているところです。寺院の存続危機が叫ばれて久しくなります。きっかけは今から29年前に放送されたNHKスペシャルの「寺が消える」でした。本当はこのとき気づいていればまだ多くの打つ手があったのでしょうが、これは一部の場所でのこととか、まだまだ自分には関係のないことと大半の寺院は思っていました。 

実際は今から40年前には日本の人口構造が大変なことになり、少子化・人口減・超高齢社会がやって来ることはわかっていました。しかし直前にならないとわからないのが、人の本性ですから今になって慌てているわけです。お寺もようやく今になって対策を考えようとしていますが、寺院の3割減というのは避けられないでしょう。特に人口が一万人未満の町村では、自治体自体が消滅可能性があるということですので、地域無くしてお寺が存在するのは難しいと言えます。 

この現象は小さな町村だけにとどまらず、地方都市にも波及して行くと思います。寺も人口動態に引きずられるので、生活しやすい場所にあるお寺だけが大きくなって生き残って行くという形になると思います。都市周辺部以外にある寺院は、観光資源や宿坊、修業体験、カルチュア教室など特長を持たせて行かなければ生き残るのは難しいと思われます。 

また一方ではお寺と関わりがあるのはお墓があるためであったり、お世話になった先祖供養のためというようなことが大部分であり、教義に惹かれたとか信仰・信心によるものはほとんどないと考えられます。そのため先祖供養に力を入れているような宗派が選ばれることはあると思います。
 
このたび大局的な視点からお寺を考えたたいと思って、歴史的背景を勉強したのですが、あまりにも紆余曲折がありすぎて、どう体系づければいいのか迷ってしまいます。特に権力との対峙という面では情けないほど迎合的です。これで本当に庶民を救って行けるのかと思ってしましました。

2017年1月25日水曜日

スリル満点、除雪してない路地の運転


 

三日連続で雪ネタになりますが、それほど今回の雪は大変でした。まず隣の町内ですが大きな紙問屋さんがあるので、トラックが毎日のように入って来ます。この町内はまとまりが良く皆さん協力的で、このような大雪の場合は町内総出で雪かきをされます。6年前の時は、わが町内は雪だらけでしたが、隣の町内は路面が出ていました。 

しかし高齢化が進み作業する人が少なくなったため、今年は雪かきがされていませんでした。隣の町内のほうが日当たりがいいので雪が緩むのも先です。少し緩むと車が通ったあとに轍が出来ます。全部の車の車輪幅が同じなら二本の轍で済みますが、軽の轍と普通車の轍とトラックの轍の6本出来ることもあります。片方だけ一緒になったりしますので、ラインがぐちゃぐちゃになります。轍の無いところを選んで走ることが不可能になります。どれかの轍にはまりながら進むことになりますが、後輪が横滑りしますので運転は冷や汗ものです。 

トラックが紙を積んできたときはかなりの重量があるので雪を噛んで走りますが、荷物を下ろして軽くなったとたんタイヤがスリップを始めます。後輪にチェーンを巻いていましたが、我が町内に入ってから全く進まなくなりました。轍はあまりなかったのですが、トラックのタイヤがスリップして穴を掘るように飛び飛びに轍を作って行きます。5メートル進んではスリップして動けなくなり、七、八人がタイヤ付近の雪を取るということを五回くらい繰り返してやっと町内を抜けることが出来ました。 

後続車も六台くらいいましたが、それぞれスコップを手にして手伝っていただきました。今の時期は路地に入ると動けなくなることがありますので、人手のない早朝や夜間は走らない方が良いと思います。お寺に来るにはどうしても通らなければならない道路ですので、お墓参りの方などはこの数日間は来られない方が良いと思います。 
 

2017年1月24日火曜日

再び銀世界

今朝もまた窓を開けると銀世界でした。昨夜10時ごろが39㎝でしたが朝7時には52㎝の積雪になっていました。降った直後の50㎝はたいしたことはないのですが、一日たって50㎝というのは重さが違います。下の方は圧雪になっていますので、除雪も大変な労力となります。午後1時頃がアメダスの最高積雪量だったようで57㎝を記録していました。 

昨日除雪していたので今朝は1時間ほどで雪かきを終えました。その後、お昼にライオンズクラブの例会に徒歩で行きましたが、途中若桜街道でスタックして動けなくなっている車がいました。タイミングよく同宗のお寺さんが通りかかられたので、二人で押しましたがうまく行きませんでした。駅前ではバスまで立ち往生したらしいです。 

鳥取自動車道と米子自動車道の大雪のための車の立ち往生は全国ニュースにもなりました。6年前の1,000台の立ち往生を思い出しました。1台が轍にはまるとタイヤが空転して轍が深くなりひどいことになります。停まる場所を考えないと轍にはまって横滑りを起こしハンドルと関係なく思わぬ方向に行くことがあります。 

うちの犬は雪が大好きなようで、積もった雪の上をウサギのようにピョンピョン跳ね回ります。雪があると場所を問わずくるくる回ってウンチをします。雪がないときは散歩の途中にある草むらの決まった場所でしかしません。今日も散歩をしようと門を出たところ、スタックして困っている車がいました。町内の女性が手伝っておられましたが、抜け出せそうになかったので散歩を中止し手伝いました。武蔵屋の若主人もスコップを持って応援に駆けつけてくれました。 

運転を代わって何とか脱出に成功しました。そのまま信号手前の平坦なところまで運転しました。鳥取に住んでいると、轍にはまった車をあちこちで助けている風景に出会います。不便だからこそ自分が困った時に助けてもらったことを思い出して、助けようとするのです。便利な都会ではこういう気持ちは生まれないでしょう。鳥取に生まれ育って良かったと思います。
 

2017年1月23日月曜日

ドカ雪が降りました





朝起きると樹木や墓の頭がこんもりするくらいの雪が積もっていました。静かな朝は深々と降ることが多いのです。寒すぎたり、風が吹くときは雪が少ないのですが、零度前後で風が全くないときなどにたくさん降ります。今回は16日の倍くらいの30㎝超の雪です。テレビを見ると大雪警報が出ていて、まっすぐに落ちるような降り方ですので、これは積もるだろうなと思いました。

今日の外出は、市役所に防災会の補助金申請の書類を持って行くことと、池田外科に行くくらいで、寺務室での作業が大半ですので除雪することにしました。最優先は本堂への参道です。そして庫裏への道を確保することと、安穏堂へお参りされる道をつけることです。そのあと駐車場にかかりたいと思います。

雪は止み間なく降り続き、昼頃には50㎝となりました。本堂へお参りに来られた方にも雪かきのお手伝いしてもらいました。除雪機だけですと取り残しがあるので、その部分はスコップでやらなければなりません。除雪機は簡単そうに見えますが、実は力が要ります。湿った雪の場合は排出口が詰まってトコロテンのように雪の塊が出て来て飛ばすことが出来ません。コツを掴めば詰まることなく作業を続けることが出来ます。

休憩を含めて8時間くらいは雪あけ作業でした。駐車場も10台くらいは止められるくらいに空けることが出来ました。街中は雪の捨て場所がないので、ブロック塀に沿って雪の壁を作るくらいしかありません。明日の朝まで大雪が続くようですので、明日も雪あけ作業が続きます。今晩はきっとよく眠れるでしょう。


2017年1月22日日曜日

スポーツも人生も最後はメンタル


午前中に25回忌と7回忌の法要を勤めました。施主様が亡くなってから自分の法名をつけてもらうのは残念だから、生前法名が欲しいと言っておられましたので、ご要望にお応えしました。京都の西本願寺にお参りすれば毎日帰敬式がありますので、そこで法名をいただくことが出来ます。もし自分でつけたい法名があれば内願という方法もあります。

法名は住職につけてもらうものだと思っておられる方がありますが、浄土真宗では生きている間に本山にお参りして、ご門主からいただくのが正規の方法です。生前に帰敬式をうけていらっしゃらない方がお亡くなりになった場合に限り、ご門主の代理として住職が授けることが出来ます。

夕方からは、8年間町内会長をやっていただいた方のご苦労さん会を門徒会館で開きました。丁度相撲の千秋楽と全豪オープンテニスの四回戦がありましたので、150インチのスクリーンで楽しむことが出来ました。結果的に4時間超の懇親会となりました。スポーツは最終的には集中できる精神力だということで全員の意見が一致しました。 
 

2017年1月21日土曜日

アメリカファーストの心は

トランプ大統領の就任演説を聞きました。理念や希望や夢にあふれていて特に悪意は感じませんでした。アメリカファーストが何度か出ていましたが、すべてを自分の国のためにということは、どこの国でもやっていることで悪いことだとは思いません。いわゆる自己中心主義です。

自己中心というと悪いことのようにとられるかも知れませんが、生まれたての赤ん坊の時から人間は自己中心的に生きています。善悪損得もすべて自分中心です。そして周りが理解できるようになって初めて自分だけで生きているわけではないということに気が付きます。お互いが自己主張を通そうとすると喧嘩になることを知ります。他人にもまれることにより、喧嘩をせずに共に生きていくための方法を学びます。

誰もが自分が一番大切、自分の国が一番大切であるわけです。まずそれを認めることから始まります。自分が生まれ育った国が大切なように、相手の国もそう思っているのです。そこで国同士が喧嘩せずにやって行くためのルールを決めるわけです。それが成熟していく過程です。トランプさんもそんなことは百も承知だと思います。

演説の中でアメリカが勝つという話しが出ていました。勝つということは負ける国があるということです。負ける国ことは考えないのでしょうか。負ける国のおかげで自分の国が勝てているということを考えないのでしょうか。もしそういうことなら、勝ち続けるしかありません。負けたときに誰も手を差し伸べてくれないでしょう。そうなるとアメリカエンドです。
  

2017年1月20日金曜日

弱体化する町内会組織

町内の副会長をやって8年になります。同期間された会長がこのたび勇退されましたので、本来であれば会長を引き受けなければならない所です。どこでもそうだと思いますが、町内の主な行事の中に神事が含まれます。僧籍の身としては、さすがに神事に関わることは出来ないので、会長は辞退しています。今期からはまた副会長として会計を担当することになりました。

高齢社会を反映して80歳以上の世帯も多くなり、少子社会を反映して若者の数が減っています。小さな町内になりますと、役員のなり手がないというより役員になれそうな年代の人がいないという現象が現れています。子どもになるとさらにひどく、中学生一人、小学生一人、乳幼児一人という現状です。

今までは80歳以上はゴミ当番や市報配布などの班長業務を免除していましたが、それも撤回しました。80歳以上も町内にとっては重要な戦力なのです。我が町内だけの問題ではなく、どこの町内でも同じ問題を抱えています。私が子供の時代は60世帯に200人を超える人が住んでいましたが、今は32世帯に70名ほどです。町内にいくつかあった組織も子供会、納税組合、老人会、婦人会と順番に無くなって行き、残るのは防災会と町内会だけとなりました。

町内の弱体化が進む原因がもう一つあります。戸建住宅ではなくアパートやマンションに住んでいる方の加盟がないことです。ゴミなどはステーションに出されていますので、町内会に入ってもらいたいのですが、いつまでいるかわからないなどの理由で加盟されません。どういう方が居住されているかもわからないので、災害救援時には困った問題となりますが、町内だけの力ではどうにもなりません。

自治会や町内会というのは、もともと行政の仕事をボランティア的にやっていたことが元のようですので、今のように行政組織がしっかりしている時代であれば、弱体した町内会に任せずに、行政の仕事としてやっていただきたいものです。経費の問題を言うなら、住民基本台帳カードやマイナンバー制度などへ使った無駄なお金を返して欲しいものだと思います。

2017年1月19日木曜日

刹那ということ


一月もあと十日余りとなりました。少し前が正月だったとは思えないほど早く過ぎ去ります。お釈迦様はものごとを正しく見ることを勧めて下さいました。無明からの解放です。私たちは今ある姿が変化せずに当面は続くだろうと思っています。ですから予定を立てたり、約束したりします。 

仏(ぶつ)の智慧から見れば、すべてのものは移り変わっています。私も刻一刻と老化への道を突き進んでいます。これは生まれた瞬間から始まっていることなのです。あらゆるものが連続して動いているように見えますが、これは脳が補正しているだけで、本当は一瞬の連続なのです。これ以上分割することの出来ない時間を仏教では刹那と言います。 

パラパラ漫画をご存知だと思いますが、一つの絵と次の絵をスムーズにつないでいるのは脳です。映画の絵は一秒間に24コマ、テレビは30コマです。静止画を脳でつなぎ合わせてスムーズに動いているように感じているだけです。超スローモーションでも500コマくらいです。 

木村泰賢さんという仏教学者が、映写機のフィルムに例えて、過去は巻き取られたフィルム、現在は今映っている一コマ、未来はまだ映していないフィルムであると言われました。こう考えると、今というのはほんの一瞬であることがよくわかります。未来のフィルムには何が映っているのかは分かりませんし、どれくらいの長さかもわかりません。フィルムが切れているのかもわかりません。
 
DVDの映画であれば気に入ったシーンを何度でも再生できますが、人生は再生出来ません。だからこそ今という時間が大切なのだと思います。因果関係でいうと、過去の原因が今を作っているのです。今が未来を作るのです。今を大切に生きましょう。

2017年1月18日水曜日

包丁で指を切りました

包丁を洗う時に間違ってつばの刃の部分で小指を切ってしまいました。よく切れる包丁であったので、少し深く切れました。手を高く上げて左の指で押さえて、止血しようとしたのですが手を下ろすと再び出血してしまいます。何度か試したのですが自分では止血出来なかったので病院に行きました。傷がもう少し上だと絆創膏で止められるが、指の関節に近いところが切れているので、縫った方が良いですよと言われました。

関節のように常に動かすところですと、傷がふさがりにくいので縫ったほうが良いようです。人間には自然治癒力がありますので、どんな傷でも治るそうですが、傷をふさぐために作られる肉芽組織が大量に使われてしまい、治った後の肉の盛り上がりが残るので最小限の肉芽組織で済むように縫合するのだそうです。肉芽組織の役割は接着剤のようなものだそうです。例えば傷口がパックリと割れているような場合は、割れ目をふさぐように肉芽組織が出来ますが、縫合して隙間を無くすれば最小限の傷跡で済むということです。

縫合が痛くないように局所麻酔をしますと言われ、小指の付け根に三か所麻酔注射をしました。指に注射をするというのは神経が集中しているところだけに痛いだろうなと思いましたが、痛いですよと言われていたので覚悟が出来ており、それほど痛みは感じませんでした。10分ほどして麻酔が聞いているかどうか確かめますと薬指を思い切りつねられ痛いでしょうと言われました。今考えると何の意味があるのかと思います。

縫合時は指が痺れていて全く痛みを感じないまま治療は終わりました。今日予定していた叔母の市立病院への付き添いや個人医院での薬の受け取り、税理士との面談など全て坊守にやってもらいましたし、私の外科病院への移動や受付は娘がやってくれました。たかが指の怪我ですが、出来ることが大幅に制限され不自由な一日となりました。

怪我や事故などは脳の錯覚によるヒューマンエラーだと言います。エラーをゼロにすることは出来ないということですが、少なくすることは可能です。包丁を使う時は正しい姿勢で基本に忠実に注意深く作業することを心がけたいと思います。

2017年1月17日火曜日

七人兄弟


79歳で往生されたご門徒さんの葬儀をお勤めしました。七人兄弟の長男さんでした。六人の弟妹は全て県外にお住まいでしたが、全員が揃われました。このたびは身内だけてお勤めされましたが、親族と近所のかただけでも50名を超える人数となりました。 

公務員として定年までお勤めされました。写真、テニス(軟式・硬式)、魚釣り、旅行と趣味も多彩で、奥様に言わせると好きなことばかりやっていた人生でしたということでした。部下に慕われるかたで、お酒とたばこが大好きで、なんだかんだと言っては飲み会を催されていた様子が伺えました。 

当山の客殿新築の際には、総代さんに次ぐ多大なご寄付をされました。お参りの方が本堂の寄付札を見ておられましたが、どんな気持ちだったのでしょうか。何十年もお盆参りをさせていただきましたが、寡黙な方でいつも私のうしろで正座して手を合わせておられました。お寺に対する思いがどういうものであったのかは知る由もありませんが、お寺に期するものがあったのかも知れません。
 

ご両親が早く亡くなられていますので、二弟四妹にとっては父親代わりだったようです。これから逮夜参りが始まります。奥様の心の穴を埋めるお手伝いをしたいと思っています。四十九日法要では、全員が揃って正信念仏偈をあげたいものです。合掌

2017年1月16日月曜日

煩悩のラスボスは?

このところの寒波で冬の寒さを思い知らされたところです。今回の積雪は16㎝と少な目で、驚くほどのことはないのですが、今まで積雪の無い生活をしていましたので、雪があるとやはりうっとうしいです。法要のある時はカバーのある雪駄をはいているのですが、歩くとはねをとり、雪駄の上に雪が乗りそれを足裏で踏むので、足袋が濡れて冷たいのです。ゴム長靴が合理的なのですが、着物にゴム長は合わないので、無理をしているわけです。 

少しの温度変化で寒いと文句を言い、暑いと文句を言うのが人間なのです。家の中は暖房があるので快適ですが、一歩外に出ると冬の寒さが染みます。寒いと愚痴が出るのは煩悩のせいだとわかっているつもりですが、どうにも止まりません。煩悩は百八つあると言いますが、その中でも一番おおもとになる煩悩は無明だと釈尊は考えられました。 

無明の明とは、智慧ということですので、無明とは智慧がないことを言います。別の言い方をすると愚かさを意味します。愚かさこそが諸悪の根源であり、ラスボスです。この愚かさとは、ものごとを正しく合理的に考える力が欠如しているという致命的なものです。本当は雪があるときは着物に長靴でもいいのですが、見た目を気にするという煩悩がそうさせているのでしょう。 

無明の子分に恨みという感情があります。ダンマパダには次のようにあります。『この世では、恨みが恨みによって鎮まるということは絶対にあり得ない。恨みは恨みを捨てることによって鎮まる。これは永遠の真理である。』日本の忠臣蔵では、考えられない思想ではないでしょうか。 

仏教では、実は愛も無明の子分なのです。愛は始まりはきれいですが、そのうち色欲や所有欲、独占欲などの思いが強く出てきて、煩悩の側面の方が大きいのです。ダンマパダでは次のように戒めています。『割愛でがんじがらめになった人びとは、罠にかかったウサギのように這いずり回る。束縛と執着に捕らえられて、永いあいだ、繰り返し何度も何度も苦しみを受けることになる』
  

2017年1月15日日曜日



 
51歳の若さで往かれた男性の百か日法要をお勤めしました。学校の先生でしたから教え子の方たちがたくさんお見えになりました。百か日は別名卒哭忌といって、涙を流す日から卒業する日の法要です。でも実際はなかなか卒業することが出来ません。 

人は暦の中にいろいろな節目の日をもうけています。大晦日から元旦にかけてもそうですが、我が家の犬にとっては普通の日と何ら変わりはありません。考えて見れば人が作った節目というだけですが、年内に何とか片付けようと思ったり、年が明ければ何故かいろいろなものが新しくなったような気になります。やはり人には必要なものなのでしょう。 

今日の法要は音楽法要で勤めました。真宗宗歌、三帰依、念仏、らいはいのうた、みほとけにいだかれて、恩徳讃という順番に進みました。普段経験することのない音楽法要にびっくりされており、まるで讃美歌のようですと言われていました。五線譜を使いハーモニーをつけると讃美歌のような感じになります。歴史的背景はわかりませんが、多分に真似ているところはあると思います。 

法要のあと百か日法要の意味についての法話を少し行ない、そのあとはギターとバイオリンのコンサートになりました。事前準備なしでしたが近くにあったマイクとアンプにエフェクターをつけて何とか様になりました。ギターの方は教え子さんでしたがバイオリンはプロの方でした。法要だけより先生を偲ぶことが出来たと思います。私も暖かい気持ちになれました。 

その後のお斎も、お店の方が来られてお弁当以外に店舗用の仕切りのあるおでん鍋が振舞われるなど、楽しい食事会になりました。法要からお斎の終了まで4時間半という濃い内容となり、故人も喜んでおられると思いました。

2017年1月14日土曜日

得度申請がありました

私のところの県外居住のご門徒さんが、得度を受けるための申請書を持って来られました。お家は曹洞宗でしたが、仕事柄教誨師の話しを聞く機会が多くあり、浄土真宗の教誨師の話しに感銘を受けられ退職後は教誨師の道に進みたいと浄土真宗僧侶への道を目指すことにされたそうです。 

得度するためには浄土真宗のお寺の門徒となり、得度を受けることに対する住職の同意が必要となります。同じ道を志す仲間が増えることは歓迎すべきことで、どこのお寺でも受け入れてもらえそうな気がしますが、一概にそうとは言えません。お寺には賦課金という本山や中間組織に対する上納金の負担があります。門徒数などを基準にして決まっていますが、所属僧侶の数によっても賦課金が変わります。僧侶の数が多いほど、門徒数が多いほど賦課金は上がります。 

寺院によっては負担が多くなることを避けたいところもあり、僧侶希望の方を受け入れられない所もあります。私のところは賦課金が高くなることより、仲間が増え、そのことによって救われる方が増えることを望みます。この方が僧侶になられると、当山の僧侶は四名になります。
 

今年の彼岸会か報恩講の時には、四人そろって読経出来ると思います。今からその日が待ち遠しく思います。

2017年1月13日金曜日

司馬遼太郎の十六の話


司馬遼太郎の十六の話という文庫本があります。エッセー風の十六の話しが納められています。司馬遼太郎は歴史小説家と見られているようにNHK大河ドラマの原作となった作品も六点あります。

この本の中にも書かれているように、司馬遼太郎は浄土真宗の家に育ったようです。親鸞聖人についても「当時の仏教は歴史を経るにしたがって垢がついてしまったように感じ、釈迦の仏教に帰りたいと思って勉強した人物」という風に紹介されています。

大局的に二千年近くの歴史を語っていますので、細かいところはバサリと切り捨て、わかりやすい本になっていますが、場合によっては小説のように司馬風になっており、面白く読めます。たた、大きく分かれる意見がある場合でも、片方を切り捨てていますので、実証性という意味ではお薦め出来ません。

名も知られていない一人の人物に焦点をあてて、その行動を分析し評価を高めるような手法は彼ならではのものかも知れません。曲がりくねった歴史をまるで道路を作るように直線にし、見晴らしの良い姿にしていますので、小学校時代にこのように歴史を教えてもらっていたら、歴史が好きになっていただろうなと思います。

高校時代まで歴史が嫌いだった私としては、司馬遼太郎が先生だったら日本史の点数ももっと良かっただろうと思います。正しい年代や細かなところは、興味を持ってからいくらでも学べます。興味を持たせるのが教師の仕事のような気がする本です。
 

2017年1月12日木曜日

写経の仲間と新年食事会



昨日写経に集われる方々と賀露の山田屋で新年食事会を行ないました。日程の合わない方もいらっしゃったので、18名の参加でした。写経会では写経だけでなく、年に二、三回近隣に出かけて食事会をします。平成二十年に始めたころは四、五人でしたからずいぶん増えました。門徒さん以外が半分を超えています。ほとんどの方が門前の掲示板を見て訪ねて来られました。 

写経を始める理由は、字がうまくなりたいとか集中できる時間を持ちたいとかがほとんどです。写経自体は自宅でも出来るものですが、自宅ですとついテレビをつけたり、電話や来客に邪魔されたりで、字を書くことに集中することが出来ません。ピンと張り詰めた中で一言も発せず黙々と写経に励む姿は他では味わえません。 

讃仏偈、重誓偈、正信念仏偈を中心に書いていますが、中には阿弥陀経、観無量寿経、無量寿経のすべてを書き終えて現在御文章に挑戦されている方があります。その方は写経ではなく、臨書です。新年になって新たに門徒外の二名の方から参加したいという申し出がありましたので、二十名を超える大所帯になります。二十代~八十代までの方がおられますので休憩中の話題が豊富です。
 
食事から帰ってからクイズ形式のゲームをしたり、ミカン取りゲームや真宗かるた大会で笑ったり叫んだりと汗だくで盛り上がりました。初めて参加された方は、毎年こんなに盛り上がるんですかとビックリされていましたが、こういう楽しみがあるから長続きしているのかも知れません。

2017年1月11日水曜日

脳科学と仏教3


釈尊が35歳でさとりをひらき、そこでさとった内容を伝えたのが四諦八正道です。四諦は四つの真理であり、第一番目の苦諦とは生きることは本質的に苦であるという真理であり、二番目の集諦は苦の原因は煩悩であるという真理です。三番目の滅諦とは煩悩を消すことで苦が滅するという真理であり、四番目の道諦は煩悩をなくすための具体的な道が示されています。具体的には八正道という方法です。

この考え方は現代の私たちが知っている医療の考え方によく似ています。健康だった人がある日突然お腹が痛くなり苦しんでいるとします。まさに苦の状態の真っただ中にあります。医師は症状を様々な角度から検討して、その原因を突き止めようとします。その結果原因がわかれば症状の改善のための処方箋を作り、実際に治療を開始します。

 ブッダの修業は瞑想が中心です。瞑想の目的は精神を集中して物事を客観的に見ることです。精神を集中するということは不要な外部の情報を遮断するということです。例えば視覚を遮断すると聴覚が鋭くなるような感じです。五感を遮断することが出来ればどういう世界が広がるのでしょう。

悲しみや不安に押しつぶされそうになった時、人は正しい判断が出来ません。自分を追い詰めてしまい極端な場合は生きる力を無くしてしまう場合もあります。そのようなときに精神を集中して自分の置かれた状態を客観的に見ることが出来れば苦から脱出出来ることになります。

一方脳科学では死の不安や恐怖を乗り越えられるのは統御感であるということが言われ始めました。統御感とは自分の体は自分でコントロールしているという意識です。無力感の反対の状態です。助手席に乗っていると他人の運転に思わずブレーキを踏む動作をしてしまうことがありますが、自分が運転しているとそのようなことはありません。自分が車を制御しているという感覚が安心感を生むのです。精神的安定が手術や薬に勝る例もあるのです。

近い将来脳科学と仏教の接点が見つかる日が来るような気がします。
 

2017年1月10日火曜日

脳科学と仏教2


昨日のつづき→目に見えたものをそのまま認識するのではなく、脳がその画像を再構成したものを事実として認識するということは、間違った情報かも知れないわけです。言い方は違いますが、仏教も脳科学も事実とは違う場合があると承知しています。再構成した時に紛れ込むものを仏教では煩悩と言っています。脳科学では補正等と言っています。 

仏教では煩悩があるから物事を歪んでとらえると言います。煩悩の代表的なものを無明と言います。無明とは物事を正しく判断できないことを言います。なぜできないかと言いますと、自分中心にしかものごとを見ることが出来ないからです。つまり自分にとって得か損かということが判断の基準になっているからです。そしてそれが苦の原因であると考えます。 

科学では人間が自分中心になるのは、仕方ないことだと考えています。すべては自分の脳で作り出している世界であるからです。自分に都合の良いように作り直しているのです。自己保存の本能が最優先となりますので、自分が生きていくのに都合のいいように受け手のレベルで作り変えるわけです。 

仏教では苦の原因を取り除く方法として、周りを変えるのではなく自分自身を変えていくという方法を取ります。一見消極的に思えるかも知れませんが、実はこれが結構積極的でないと出来ないことなのです。自分を変えるというのは、覚悟のいることなのです。明日へつづく


2017年1月9日月曜日

脳科学と仏教1


操作を間違ってこの日の文章を消してしまったので、思い出しながらもう一度書きます。

科学は自分の目から見て外にある物質を研究する学問です。仏教は自分の心の中を正しく見つめるための教えです。方向は全く別ですが、同じ理屈を原点としています。

仏教はなぜ自分は今ある姿になったのかということを出発点として、その原因を探ろうとします。科学はいろいろな現象には法則があるはずだと考え、実証を積み重ねてその法則を探ろうとします。法則があるということは、同じ原因には同じ結果があるだろうと考えることです。仏教ではそれを因果の法則と言います。

科学は自分の外側に興味を持ちます。仏教は自分の内側に興味を示します。今までは全く逆方向でした。それが脳科学という自分の体の中に目を向けたことで、仏教との接点が出来ました。釈迦の仏教は瞑想により集中力を高め、自分に染みついた癖を取り除こうとします。脳科学は、五感で知覚したものはストレートに入って来るのではなく、一旦脳で受け止めてそれを脳が再構成しているものを認識しているということを解明しました。

仏教は、私たちの認識は、エゴというフィルターを通して自分の都合のいいように受け止めていると考え、その原因は煩悩にあると考えます。煩悩の親分である無明を乗り越えるために様々な修行をします。それは万人向けではなく、それぞれが自分に合った方法を取り入れればよいと考えます。それが宗派の違いになった部分が大きいです。
 

2017年1月8日日曜日

尾崎翠への旅


スマートレターというメール便で点線面Vol.2という雑誌が送られて来ました。タイトルは「2016年尾崎翠への旅」。サブタイトルは生誕120年を迎えた孤高の作家が生み・育てたものとなっています。
全160ページのうち75ページが尾崎翠関連、23ページが鳥取関連の記事で埋まっています。

どういう人を対象にした本なんだろうと思いながら読み進めていくと、編集後記に巻頭特集は主に翠ビギナー&翠の故郷・鳥取にはまだ足を延ばしたことのないファンの方に向けてお送りしたと書かれていました。

目次の主なものを拾ってみると、・翠に反応した著名人たち・[考察]尾崎翠世界の魅力①~③・尾崎翠人気再燃の立役者とは・映画化が生んだ新たな読者層・尾崎翠全集(創樹社)書評 吉行理恵・special essay 尾崎翠とその作品の映画化、そして吉行理恵さんのこと 浜野佐知・尾崎翠ゆかりの地を訪ねる 東京編 鳥取編・尾崎翠との出会い 木村紅美など読んで見たいと思わせる記事がいっぱいです。

中でも浜野佐知監督のspecial essayは、今まで知られなかった映画化の裏話が書かれていて興味深く読みました。この雑誌でなければ書かれない内容だと思いました。特集の最終ページの直前に、養源寺での様子が記事になっています。この本を手に取る機会があれば72ページ、73ページもご覧下さい。この本の発行はポンプラボとなっています。連絡先は03-5938-7283東京都杉並区となっています。ホームページもありますが、更新されていない様子で情報はありません。


2017年1月7日土曜日

残された家族での出発

私が関わった葬儀のことしか言えませんが、四十九日が終わるまでは仏事に追われて、これから先のことを考える余裕はありません。残されたものでこれから家をどうして行こうかということは、満中陰のハガキを出してから考えることが多いようです。四十九日法要の次の法要を百箇日法要、別名で卒哭忌(そっこくき:嘆き悲しむことから卒業する法要)と言いますので、それが終わってからでもいいような気がしますが、現代生活のテンポでは、遅すぎるかも知れません。

大黒柱を亡くされた場合には、一番初めに経済的にどうして行くかということを考えなくてはなりません。定年前の方であれば、ある程度の生命保険に入っておられると思いますが、それで永遠に暮らせるわけではありません。一般的には三年間を目安に生活の立て直しを図ることになります。
残されたのが高齢者であり、収入は国民年金しかないという場合は、生活して行くのが困難ですので、国のセーフティネットを頼ることになります。

いくら仲の良い夫婦であっても、どちらかが見送ることになりますが、ぽっかり空いた穴を埋めるのは容易なことではありません。ぽっかり空いた穴というのは、亡くなられた方からいただいていた支えなのです。あなたが間違いなく支えられていたということの証なのです。蓮如上人はそのことを「悲しみは悲しみのままで終わらせてはならない」とおっしゃっています。支えられていたことに対してどう応えてゆけばいいのかということです。感謝の気持ちを世の中にどう返して行けばいいのかということです。

残酷な言い方ですが悲しみの穴を埋めるのは読経でも法話でもありません。後で聞いてみると、どちらも記憶に残っていないと言われます。それが出来るのはあなた自身しかないと思います。そして時がそれを手伝ってくれると思います。家族に出発の掛け声をかけるのはあなたの役割です。

2017年1月6日金曜日

それを言っちゃあ お仕舞よ

月刊住職1月号の隅っこの「されどわれら住職」欄に、ある坊守さんの言葉が載っていました。法事一つとっても最低限の必要経費(材料原価)があるので、それをお布施の中に含まずに、〇〇料のような形で納めて欲しいというものでした。確かに一つの法事で茶菓代や供物代や仏華代など合計すれば一万円は軽く超えます。そしてそれはお寺が支払っているものですから具体的に目に見えます。

一方お布施は、お寺を維持していくために使わせていただきます。具体的には伽藍の維持管理費、修繕費、専従者の人件費、上部団体会費、保険料、教化費など多岐に亘ります。収入が支出を下回った場合には、人件費の不払いが真っ先に来ます。しかしお布施を渡す側からすれば、そんなことは考えません。この法要にかかる費用にあててもらうという感覚だけでしょう。

この坊守さんは、必要経費がいくらかかっているかを教えなければならないと思っておられるようですが、それは対症療法と言えます。いわゆるその場しのぎです。それで寺院会計が苦しくなっているなら、根本治療が必要です。そのためにはお寺の経理を全面公開することが必要になって来ると思います。

そうすることで、お寺も丸儲けではなく、こんなに大変なんだとわかってもらえます。私のところもオープンにしてずいぶん経ちますが、お金のことで文句を言う方は無くなりました。人は隠すと邪推します。お寺にとっていいことは一つもありません。住職はオーナーではありませんし、お寺は公益団体ですから利益を出す必要はありませんが、赤字では成り立ちませんので維持するためには最低トントンにしなければなりません。

住職の裁量で出来ることもありますが、最終的にはご門徒さんの判断であり、お寺を支える地域の方の判断です。無くてもいいお寺であると判断されたなら、いのちは短いでしょう。最近は地域の大切なものを守って行く力が弱くなっています。その力を引き出すのも住職の役割だと思うこの頃です。

2017年1月5日木曜日

傘寿まり子を読みました


今話題の、「おざわゆき」さんの「傘寿まり子」を読みました。小説ではなくコミックです。ここからはネタバレを含んでいますので、まだ読んでいない方はご注意ください。読み始めは高齢者の置かれた住みにくい世の中を描いていますので、重い漫画かなと思いってしまいますが、独立しようと家を出てからは、楽しい冒険物語を読むようです。

作者の言葉を借りますと、最近お年寄りが元気なのにヒントを得て、すっごい元気でアイドルみたいなおばあちゃんを描いたら楽しそうということで始めたそうです。テレビでも「ご長寿早押しクイズ」というのがあり、正月もやっていましたが、思いがけない珍回答が笑いを誘います。受けを狙ってやっているのではないところが面白いですが、哀愁もあります。

ネットカフェで暮らしたことがないのでわかりませんが、老人には快適な暮らしとは言えないでしょう。アパートを借りるにしても保証人という障害がありますし、80歳で一人暮らしのものに貸してくれるような物件を見つけるのは至難のワザのようです。猫ちゃんを飼うという展開がありますが、どうなることでしょう。

お寺に写経に来る方の中にも、猫ちゃんとふたり暮らしの方がおられますが、猫ちゃんを看取るまでは元気でいないといけないといろんなことに頑張っておられます。漫画の中のことと思えない現実があります。若いころの憧れの人と巡り合い、一緒に暮らすことになりそうですが、これからどんな展開をみせるのか次号が楽しみです。

2017年1月4日水曜日

次世代へ相続出来るもの

新年も4日になり通常の生活に戻りつつあります。元旦会から始まった2017年ですが、全国的に見ても平穏な年明けだったような気がします。三が日は例年になくお酒が進みました。何より雪が全くないのが有難いです。雪がなくて困っておられるところもありますので、あまり自分勝手なことばかりは言えませんが…。

昨日は子供たちが集まって一緒に食事をしました。三世代揃いますと12人です。子どもたちの元気はいつの時代でも変わらないようです。ただ孫の世代に何が残せるのか頭の痛いことです。今のままでは国の大借金をそのまま渡すことになりかねません。私たちの世代は親から戦争でボロボロになった国を渡されました。何もなかったのでゼロから作り上げて来ました。ある意味でやりやすかったかも知れません。

今のままでは次の世代に、多くの負債と廃墟を残すことになるでしょう。今でも住む人のない空き家が日本全国に820万戸(2013年調査)あり、空き家率は13.5%となっています。これが、2033年には約2,150万戸と2.6倍になります。空き家率は30%を超えます。持ち主がわからなかったり、解体費用が出せない場合は税金が投入されることになります。木造住宅はリフォームが出来ますので、何とか再利用の道を見つけて欲しいところです。

夜、犬の散歩をしていますと、灯りのついていない家が点在していることに気が付きます。空き家の問題は都会のアパートだけでなく、地方都市にも広がっていることがわかります。ご門徒さんから住宅をお寺に寄付したいと言われたこともありますが、用途もなく管理も出来ませんので丁重にお断りしました。固定資産税だけを払い続けるのも無駄なことですので、有効利用できることがないものでしょうか。個人レベルでなく、国のレベルで相続税の問題を含めて早急に対策が必要です。

2017年1月3日火曜日

老人を捨てる国?

2025年には、日本国民の三人に一人が65歳以上になります。75歳以上でも5人に一人の割合です。人口問題をないがしろにしていた国の当然の結果です。今の団塊の世代が小学校の頃には今のピラミッドが釣鐘型の人口構成になることはわかっていました。老々介護の問題が言われてからも久しいです。何故手を打たなかったのか?

今になって慌てて打っている手は、国を守るためのもので、国民を守るためのものではありません。2015年に介護保険料は、上がり始めました。年収280万円以上は1割から2割へ、次期改正では年収383万円以上は3割負担となります。

最終的に介護保険は一律三割負担になる可能性が高くなっています。そして介護度の低い高齢者は「高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援」という名のもとに介護保険制度から切り離そうとしています。お金のない高齢者には介護保険を使えないようにし、お金のある高齢者からは自己負担額を高くして貯蓄を使い果たすように仕組んでいます。

安倍政権の狙いは、介護保険の自己負担を増やし、利用する高齢者を抑制し、介護事業所をつぶして国の歳出を減らそうということです。そうなると軽度介護者は行くところがなくなり、自宅に籠るか、徘徊することになります。認知症が増え、徘徊が増えると緊急支援の広報が頻繁になります。夜中に国道を歩かれると避けようがないかも知れません。

認知症が進むと免許証を返納したことも忘れてしまいます。でも運転は出来ますのでさらに危険度が増します。そこに損害賠償がからむと、家庭崩壊となります。最近高齢者の交通事故がにニュースで取り上げられることが多くなりました。認知症の方は、事故を起こしたことすら忘れてしまうので、不法行為の裁判も成り立たなくなります。これは高齢化を国が放置した責任かも知れませんね。

2017年1月2日月曜日

人感センサーライト


LEDが出来てから消費電力が少なくなりました。お寺中LEDにしましたので電気代が安くなりました。初期のLEDは青白い光で温かみがなく、目を射すような刺激のある光でした。今のLEDは、昼光色、白色、電球色の三種類あり、部屋の使い道によって使い分けることが出来ます。

明るさでいうと昼光色が一番明るく、白色が10%減、電球色が20%減といような感じです。使い分けとしては、ダイニングは全体を昼光色で明るくし、テーブルセンターは電球色で食べ物を美味しく見せるというような使い方です。和室は電球色が似合います。全体的にどこでも使えるのは白色です。好き嫌いなく万人向けです。

本堂のろうそく球もLEDを使っています。ロウソクの光に似ている電球色を使っています。これまで使っていたロウソク球は、ぼんやりとした明るさで消費電力は5Wでしたが、LED球は消費電力0.5Wです。なんと10分の1です。これなら点けっぱなしでも大丈夫ということで、養源寺の本堂は24時間点けっぱなしです。

お寺は薄暗いところが多いので、コンセントからとって人感センサーライトを点けていました。消費電力は60Wから100Wですので、それなりに電気代がかかります。それを助けてくれるような人感センサーライトがたくさん発売されました。昔と違って不良品がなくなりました。

LEDが6個から16個ついて二千円以内であります。このライトはモードが三種類あります。①フルパワーで点きっぱなし②半分のパワーで点きっぱなしに加え、人感センサーが反応するとフルパワー③人感センサーでフルパワーです。

Amazonでもたくさん出ています。レビューがたくさんあって、☆4つ以上のものがお勧めです。電気代なしでイルミネーションのような世界を作ることも可能です。





2017年1月1日日曜日

元旦会

一年の初めにお寺では元旦会をお勤めしました。初めてお参りされる方も数名いらっしゃいました。除夜の鐘がある処は除夜会をされ、続けて元旦会をされるところもあります。養源寺は梵鐘を第二次世界大戦に拠出しましたので、除夜の鐘はありません。 返して欲しいところですが、拠出の証拠が残っていません。政治とはそういうものです。国民の生活のことなんか考えていません。政治家が求めているのは、自分たちの生活の安泰と国体の保持です。今回のアメリカを見ればよくわかります。トランプさんは自分の心に素直なのです。人間は自己中心的なものだということを教えてくれます。 親鸞聖人はそれを見抜いておられました。そしてその凡夫を救えるのは阿弥陀如来しかないとわかっておられました。自分最優先なのが人間です。でも他人のことも考えたい。自分だけが幸せになれるわけはない。周りが幸せで初めて自分も幸せになれるのです。 さあ、今年はどんな年になるのでしょう。三歩進んで二歩下がる人生なのでしょうか。それとも一足飛びの人生なのでしょうか。それは誰にも分かりません。あなたの一年に幸多かれとお念じ申し上げます。今年一年宜しくお願い申し上げます。