私が関わった葬儀のことしか言えませんが、四十九日が終わるまでは仏事に追われて、これから先のことを考える余裕はありません。残されたものでこれから家をどうして行こうかということは、満中陰のハガキを出してから考えることが多いようです。四十九日法要の次の法要を百箇日法要、別名で卒哭忌(そっこくき:嘆き悲しむことから卒業する法要)と言いますので、それが終わってからでもいいような気がしますが、現代生活のテンポでは、遅すぎるかも知れません。
大黒柱を亡くされた場合には、一番初めに経済的にどうして行くかということを考えなくてはなりません。定年前の方であれば、ある程度の生命保険に入っておられると思いますが、それで永遠に暮らせるわけではありません。一般的には三年間を目安に生活の立て直しを図ることになります。
残されたのが高齢者であり、収入は国民年金しかないという場合は、生活して行くのが困難ですので、国のセーフティネットを頼ることになります。
いくら仲の良い夫婦であっても、どちらかが見送ることになりますが、ぽっかり空いた穴を埋めるのは容易なことではありません。ぽっかり空いた穴というのは、亡くなられた方からいただいていた支えなのです。あなたが間違いなく支えられていたということの証なのです。蓮如上人はそのことを「悲しみは悲しみのままで終わらせてはならない」とおっしゃっています。支えられていたことに対してどう応えてゆけばいいのかということです。感謝の気持ちを世の中にどう返して行けばいいのかということです。
残酷な言い方ですが悲しみの穴を埋めるのは読経でも法話でもありません。後で聞いてみると、どちらも記憶に残っていないと言われます。それが出来るのはあなた自身しかないと思います。そして時がそれを手伝ってくれると思います。家族に出発の掛け声をかけるのはあなたの役割です。
コメントが入力できないと言う声がありましたので、本日よりコメント欄をオープン参加にしました。
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