2016年11月11日金曜日

浄土という世界1


12月の連研で往生浄土というテーマで2時間ほど講義をしなければなりませんので、今勉強していることを少し書いて見たいと思います。浄土真宗に対する批判の一つに、仏教とは言えないのではないかというものがあります。縁起から始まる初期仏教、そして大乗仏教に至るまで貫いている仏教の基本的枠組みから浄土真宗を考えて見なければならないと思います。

仏教は自らが仏となることを目的にしています。(ただし、仏になったらそれで終わりではありません)仏とは悟りを得た者のことです。悟りを得た者が集まって作っている世界を仏国土と言います。浄土は仏国土の一つです。宗教の世界で語られるものですが、体感するものであり言葉で表すことは困難です。

私を取り囲む世界を政治、科学、哲学、宗教という4つの分野で考えた場合、政治は主観化志向で外面化志向です。科学は客観化志向で外面化志向です。哲学は客観化志向で内面化志向です。宗教は主観化志向で内面化志向と考えることが出来ます。

仏教では思い通りにならないことを苦と捉えます。つまり自分の思い(願望)と現実とのギャップが苦になるわけです。周りの環境を変えて願望通りにしようというのが政治であると思います。それぞれが持っている願望の最大公約数が民主主義につながるのではないかと思います。

しかし、死にたくないという願望に関しては、政治では如何ともしがたい。科学は私というものを中心に置くのではなく、私というものを除外して客観的事実だけを積み上げてゆくものですから、死なない人と死ぬ人を分類してそこにどういう違いを見出すかということが必要になります。

ところが100%の人が死ぬということは、死ぬという原因は分かっても、死なないという原因は見いだせないわけです。哲学は、個人から出発したとしてもその精神的経験を客観的に見て一般化しようとしますので、死に至るまでの心理的変化は哲学的に解明できても、死そのものや死後の世界に関しては無力です。そこで宗教の出番となるわけです。

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